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風間善樹 氏「私の関係してきた業界と私の活動について」

産業活性化研究所所長、株式会社山梨ティー・エル・オー社長、財団法人やまなし産業支援機構特別コーディネーター、山梨県機械電子工業会会長、財団法人山梨県環境整備事業団理事長、特定非営利活動法人八ヶ岳コミュニティ放送理事、甲府商工会議所産学官連携支援事業コーディネータ、同3号議員
・・・東京エレクトロン株式会社代表取締役副社長の後、特別顧問を歴任され1999年8月にご退任。現在は上記の通り、数々の重責に就きながら新産業の創造と支援にご活躍されておられます。1959年4月に山梨大学工学部機械工学科をご卒業され、同年株式会社諏訪精工舎に入社。若くして開発担当者となりあらゆる時計製造の装置開発を行った。32歳の若さで3兆円の発注権限を持ち、最先端の精密加工技術に携わってこられました。クォーツの開発とアメリカ最先端企業視察に将来のテクノロジーの方向性を感じ仲間とともに独立、1970年9月に株式会社メックエンジニアリングを設立。この会社が後の東京エレクトロンの物造りの原点となりました。テクノロジーベンチャーの先駆けとして世界を相手に競争し勝ち抜いてきた技術者であり、経営者です。著書「考えるよりまず動け!―新しいものを生み出す人に共通する習慣」

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時計専用機、プリンター、半導体製造装置など、風間様のこれまでの「ものづくり」に関する多様なご経験をもとに、「ものづくり」における問題解決の方法、アメリカで感じた生産機械の重要性認識、逃げ道のないベンチャー企業の強み、心からの付き合いの人脈の広さの活用、納期短縮のための予測に基づく開発と仕込み、自分の範囲を中心にした世の中とのネットワーク、日本のものづくり技術力の評価、アジア地域の発展をふまえた今後の産業活性化など、非常に示唆に富む有用な指摘をいただきました。

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諏訪精工舎時代のこと

第二精工舎の諏訪工場(後に、諏訪精工舎として独立)に入社し、時計を作る機械「時計専用機」を作る部署に配属されました。スイスから輸入した機械が中心でしたが、セイコーグループとしてスイスから装置を買っているのではスイスを抜くことはできない、ということで自分達も独自に自動化の機械を開発するということになりました。設計して、いろんな材料を買ってきて、いろんな会社に聞いて加工して、全部自分でチェックしなくてはなりません。しかし、これが私の人生の基を築いてくれたと思っております。自分で確認するということによって、いい装置を考え出しました。

作った時計がえらく売れましたが、増産をしていくと、比例的に機械を増やしていけばいいというものではありません。サイクルタイムを1/2にする必要が出てきました。そこで、機械の加工スピードを倍に上げてサイクルタイムを半分にして、同じスペースで倍の生産をできるようにしました。これがまたすごい勉強になりました。スピードを上げたり、いろいろな方式に変えたりすると、問題が見えてくる。これによって改革のポイントが分かってそれを必死で解決する。

1968年の頃、諏訪精工舎の相沢さんという方がクォーツ(水晶時計)を発明しました。水晶時計になると時計専用機がいらなくなります。水晶時計というのは、水晶振動子と電子回路とモーターで機械式自動のカチカチしているのを、さらに精巧に100倍の性能のものにできるので、精密加工技術などいらないでできてしまう。私が一生懸命作った機械が要らなくなってしまう、と私には1968年には分かっていました。

そんな時、アメリカへ行って、ボーイングの工場や自動車の工場などを見て、アメリカってすごいと思いました。部品工場に行っても殆どがアメリカの機械で日本の機械は1台か2台しかありませんでした。アメリカを見て帰って来て、セイコーグループはこのままではまずいと思い、役員全員に時間を取ってもらって話をしました。今、時計専用機の技術を利用した新しい事業に変更しないと5年後に赤字になってつぶれますよ、と役員にいいました。まだクォーツが開発されたばかりで、やっている暇はないと言われてしまって、いくら話してもだめだと思って、セイコーを辞めました。

ベンチャー企業時代のこと

会社の気の合った仲間4人で飛び出して、新しい事業を始めようということになりました。製品はラインプリンタをやろうということになりました。精工舎の社長に呼ばれて、4人で競争企業に対抗できるのか、と言われました。ところが、私は諏訪精工舎時代に色々な企業の人脈を持っていました。日本中で一番最適な会社で作ってもらえれば、一番安くて早くて良い物ができます。それから、ひとつの商品を開発するのは、4、5人です。5万人いる会社でもラインプリンタの開発の中心人物は4、5人しかいないのです。大会社の4、5人は失敗したらどこかの部署に行けば良い。逃げ道があるのとないのとでは、どちらが勝つか考えてみてください、と言いました。

私の人脈は心からつきあっている人たちですから、電話1本です。一週間すると部品が集まってきて、1ヶ月経つと全部部品が揃います。6ヶ月で試作品ができました。同時並行です。設計する先からどんどんできそうな会社へ話をつけて作ってもらう。1億回やってもへたらないバネも、東北大学の金属材料研究所の先生にお願いしてできました。というわけで、世界最小でで高性能のラインプリンタが半年でできました。とても好評で、翌年には日産10台くらいになり、2、3年後には日産4、50台になって、山梨の工場では手狭になり、韮崎に工場を作りました。東京エレクトロンは商社、我々はメーカーの役割をしました。

1975年ごろ、半導体産業が立ち上がりました。東京エレクトロンがアメリカの半導体製造装置を輸入し、日本の半導体メーカーに売っていました。顧客の希望に合わせて改造をしたら、かなり売れるようになりました。今度は日本で作ろうということになり、当初はアメリカの装置メーカーと技術提携し、合弁会社を作りました。アメリカの会社は起伏が激しく、5、6年のうちにつぶれる会社も出てきて、会社の株を買ってくれと言われることがありました。買うと同時に技術を全部手に入れて日本で機械を作れるようにしました。

私は時計専用機を作っていたので、大体、装置のことは分かります。時計専用機の技術に化学と物理の知識と技術を入れると、半導体の装置ができるのです。作ってみると皆さんの評判が良く、性能の良いものになりました。

どういうことで競争に勝つか、予測で走ることが必要です。図面を引くと同時にそこらじゅうに発注する。私はよそよりも倍のスピードでやる。予測で走って8割くらいできあがり、あとの2割は直せばいいのです。2割直すのはそれほど時間がかからない。東京エレクトロンが3ヶ月で納品すると言えば、それならば、ということで相当受注できました。

 

 

東京エレクトロンと合併し、以後の展開のこと

これは予測をしてうまくいった例です。90%くらいは当たりました。落ち込んで立ち上がるたびにシェアを取っていきました。その結果、1990年に東京エレクトロンが世界一の半導体装置メーカーになりました。1992年頃になると、バブルがはじけて日本の電子機器メーカーや半導体メーカーが設備投資を渋るようになりました。当時、東京エレクトロンの製品は日本が70%、海外が20%でした。日本で売れなくなったので、海外を強くしようということで、アメリカ、韓国、台湾、ドイツ、フランス、イギリス、タイなどに攻勢をかけました。

私のロマンは、韮崎を世界の半導体製造装置の中心にすることでした。地球は丸い球であり、球の表面はどこでも中心である。人間の社会も球であると考えると、力のあるものが中心になる。たとえ、山梨の韮崎であっても、我々が世界一の技術を開発し、世界一の製造装置を開発すれば、世界中から注目されるはずである。

スピードを上げて、予測を立てて、技術を集中してチャレンジする。物を作る時には、日本中、世界中のあらゆるところに協力してもらって、最短期間で作る。これは、部品が良くないと装置は良くなりません。よそで作れないものは社内で作ってきたが、よそでできるものは全部作ってもらいました。最近では中小企業さんの産業レベルが上ってきていますから、東京エレクトロンの社内で部品を作る必要はなくなりました。

自分の範囲を中心にして、いかにして世の中とネットワークを組むか。私はここが勝負だと思います。基本は自分です。いかに日本と世界と組んで仕事を進めるか。よそよりも早く情報を手に入れて、自分で手を打って市場をキャッチアップすることを徹底してやってきました。

アメリカとの関係では、東京エレクトロンとの合弁会社3社の社長をしました。アメリカの人も日本の人も地球上にいる人たちは、両者に信頼関係が築けていれば、もめごともうまくいくのです。プロジェクトチームを作る時、精鋭を集めて作ると、自分の意見を主張してばかりでうまくいかないことが多い。心の通じ合った仲間、信頼関係のある人たちで作った場合はうまくいく。アメリカとの合弁会社も、結構うまくいきまして、合弁を解消する時に、喜んで解消して技術を全部くれました。

東京エレクトロン退職後の活動のこと

私は東京エレクトロン退職後、いろいろな中小企業のコンサルタント業務をしていますが、日本の中小企業が良くならないと日本の産業は良くならないと思います。日本の産業の底上げができ、生産力、技術力ともに向上すると、日本の競争力が上る。我々がしゃかりきになってものづくりのベースを作ってやってきたことが、3、5年や10年でよその国ですぐにできるなんてありえない。

中国にも年間4、5回行っていますし、インド、タイ、台湾、韓国も行きますが、行った時には工場の裏を見るのです。10台機械が並んでいたら、8台は日本の機械です。材料も、工具も、日本のメーカーのものを使っているのです。生産プロセスは日本で確立しているものです。日本の技術が支えているのです。私は、日本のものづくりの技術を駆使して、中国などのアジア諸国の生産に日本が協力してアジアを豊かにすると、日本の製品が売れるという好循環になるのではないかと考えています。

2001年に空洞化という話があり、日本の生産は全部中国に持って行かれてしまって、中小企業はすることがなくなってしまうといわれました。私は「そんなことはない!」、と言いました。これだけの日本の中小企業のものづくりの技術が、簡単に中国に持って行けるわけがない。中国を良くするように日本があらゆる面で協力すれば、日本の景気も良くなると、私は3、4年前から言ってきました。本当にそうなりつつあります。現在、作りきれないほど受注があります。

アジア地域のロシアを含めて40億人のうちの毎年5,000万人から1億人が日本の中級くらいのレベルになっている。40億人のうちの7〜8億人が日本の中級くらいの所得になり、ものを買ってくれるようになり、需要が増える。今ここがチャンスです。どのような技術でどのように拡大していくか、今年、来年のうちに基礎を固めておくことが大切です。中小企業さんと今年、来年が勝負と話しています。

私は東京エレクトロン時代、ひとつの工場がいっぱいになると、土地を買って工場を建てた。空いていてもいいから、どんどん作って空けて待っているのです。工場では20年、30年経ったら何を作るようになるか分からないので、その時に対応できるようにしています。

私は、生産用装置は日本が世界の供給拠点になる、と思っています。建設用機械、工作機械、マシニングセンター、ターニングセンター、インジェクションマシン、産業用ロボットなど、日本が世界の8割を作っています。半導体装置も、液晶装置もそうなるでしょう。あらゆる装置が日本から世界に出て行くと、世界の産業を支えると考えます。これに向かって、日本の産業人が向かっていくことが望ましいのではないかと思っています。

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